まだ、朝のHRも始まらない時間。
『江藤舞』という女生徒が、保健室に運ばれてから、もう数十分経つ。
その彼女が先ほど目覚めて、こう言ったらしい。「ここは何処?私は・・・誰?」、と。
Angel whisper(前)
―――『キーンコーンカーンコーン』と鳴り響くチャイムが、
何故か遠くから聴こえていた様な気がして、次の瞬間、「こーらっ!何よそ見している?」と先生に言われ頭をぐりぐりされた。
「いぃっ、いたたたっ」
「授業はもう終わりだぞー」そう言って、教室から出て行こうとする先生をあわてて引き止めた。
「先生、」言いかけて、止める。
「どうした?授業内容が分からないか?」
「いや、そうじゃないんですけど・・」
いくら心配だとは言え、わざわざ先生にまで自分と舞の関係について暴露する必要はない。
どう言おうかと思考を巡らせていると、
「・・・そういえば、川関は江藤と仲が良いそうだな。江藤が心配か?」
「あっ・・・はい!」
数人のクラスメートが振り向く。よっぽど大きな声で返事をしていたらしい。
慌てて、声のトーンを下げて、「江藤・・さんの具合は・・・」と聞くと、先生は普段あまり見せる事のないしかめっ面をすると、
教室のドア越しに廊下を見渡して、こっちに来い、とジェスチャーをしてみせた。
やっぱり状態は良くないのだろうか。それとも救急車で運ばれていったんだろうか。
(だけど俺は彼女があんな事になる前から学校にいたし、そんなものもなかった。)
そう思いながら廊下に出る。
先生はさっきよりも更に変な態度で、苦虫を噛み潰した様な顔をした。そして、囁く様に言ったのだった。
「目が覚めたら、記憶喪失になっていたんだ」
「・・・・・・・・・・」
その言葉の意味を理解するのに、と、いうか、受け入れるのに数秒の時間がかかった。
「・・・どういう、ことですか?」はっきり声に出したつもりが、渇いた呟きにしかならなかった。
「どういうも何も、そのままの意味だ。とりあえず、今も保健室に居てもらっている」
「なんで・・・」「わからない。主な原因は、朝の事故しかないだろう、ってその辺りに詳しい先生が言っているようだが・・・
川関は心当たりとかはないのか?」
「いいえ、そんなことは・・・」強く首を横に振って、それはない、と否定した。
「まぁいい・・・落ち着いたようなら、川関も見舞いに行ったらどうだ?」
そう言い残して先生は去っていった。
(江藤・・さん・・・、今日は、約束の日だよ・・)やるせない思いだった。
―――数時間前に起きた小さな事故。江藤舞が階段から足を滑らせて、落ちた。
*
* *
* * *
「川関君おはよっ!」
「あ、おはよ、」
階段の踊り場で、声をかけられた瞬間、ドキリとした。慌てて振り向くと、相変わらずのいたずらっ子顔がそこにあった。
サラサラのロングヘアー、加えて、出るとこは出て、しまるとこはしまった、無駄のない肉付きの肢体。江藤舞だった。
もちろん、ドキッとしたのはそのせいだけではない。俺はそのとき、考え事をしていて、よりによってその時思考を支配していたのは、
彼女への告白の返事の事だった。
昨日の帰宅路につくとき。ふいに、「好きです」と言われた。
「ずっと・・ずっと・・・・・ずっと。好きだったんだよ、川関君の事。」
ずっと、良い友人だと思っていた人が、実は自分のことが好きだった。そんな事実。
そんなの、ゲームやドラマだけのモノだと思っていた。なのに、この、自分を見つめる瞳。
まるで吸い込まれて、自分も彼女のことが好きだ、という気持ちを見透かされてしまいそうで。
思わず、「明日まで、考えさせて・・・」そう言ってしまっていた。
「うん、いいよ。・・約束ね」 そう言って、はにかんだ笑顔で微笑んだ、彼女の姿が目に焼きついて離れない・・。
「・・・約束。忘れてないよね。」
「あぁ・・忘れて、ないよ」
未だ脳内で返事の解答を求める総会議が行われている。いくら約束とはいえ、今此処で中途半端な返事はできないと思った。
「あの、さ。返事、昼休みに、でいいかな?」
少し残念そうな顔をして、彼女は、「ここじゃぁだめなの?」と言う。
顔を伏せがちに、「ん・・いや、そうじゃなくてね。実は・・―――」
言いかけたときだった。ガッシャーンと何かが割れる音。
ほぼ同時に聞こえた、ひゅっ、という何かが通り過ぎる音。
そして隣から聞こえたうめき声。
何がどうなってしまったのか、俺にはよくわからなかった。ただ気がつくと、踊り場の窓ガラスが割れ。
野球ボールが一つ、目的を失ったように転がっていて。そして、自分の隣には、自分のものでないバックが転がっていた。
「―――!?」尋常でない光景に、やっと頭が反応する。彼女は何処に行ったのか。
慌てて階段を見下ろすと、其処には・・・頭から落ちたらしく、床に黒く、髪で半円を描いた姿の、江藤舞が、居た―――。
*
*
* *
昼休み、保健室に行くと、既に先客がいた。
「あ、川関君だー、やっほー♪」
彼女の親しい女友達。2〜3人居て、能天気な返事。
少し、イラつきつつも、「江藤さんの具合は・・?」と聞く。
「舞ちゃん?めっちゃピンピンしてるんだけどー!!」そういって笑う。
彼女達は、一言二言ほど話すと、まもなく保健室から出て行った。
彼女のベットの傍に歩み寄ると、彼女はへんな顔をした。
「あなた・・・誰?」
ズキン。とたんに、胸の奥が痛んだ。何で。何でこんなことに。
パタパタパタ、とスリッパの擦る音がして、奥から先生が現れた。
「川関、来てたの」
何故か俺たちの仲は評判で、先生方は、俺たちが付き合っているものと思ってる人もいるらしい。この先生も、そんな一人で。
「江藤ね、大分色々と思い出してるよ。多分、ショック性のものだろう。直に良くなるとおもうが・・・
何せ、親しい友人とかのこと、学校のこと、ちゃんと覚えていたからねぇ」
「でも先生。彼女、俺の事は・・・覚えていないんです。」
「なんだって・・?そんなこと、先生に言われても困るよ。大切な人であるほど忘れる、なんてそんな事あるのかねぇ」
けらけら笑って、また奥に消えて行った。
もう、自分がどうすればいいのか、どうしたら思い出してくれるのか、わからない。ほとほと困って、とりあえず帰ろうとすると。
奥のドアがガラッと開いて、
先生が、「江藤―。おまえも教室戻っていいぞ。」
そう言った。
―――――――――。
――――――。
元より、彼女とは違うクラスだが、彼女に違和感があるのが怖かった。
何故俺のことだけ忘れてしまったんだろう?あの時、隣にいたから?
・・・そういう訳でもないか、と勝手に納得することにした。
でないと。何だか。
心が、おかしくなりそうだ。
昼休みに、彼女のクラスに、行ってみた。教室のドアから覗くと、驚いた事に、彼女は一人ぼっちで、黙々と弁当を食べていて・・・―――。
「江藤さん」
その声に思わず肩をびくっとさせ、慌ててキョロキョロしだしたので、傍に駆け寄った。
「あ・・・えーと・・・」やっぱり、分からないらしい。
「俺、川関春樹。江藤さんの、多分、一番の友人」
そう名乗った。そうでありたかった。
「そう、なんだ。さっき、保健室にも、いたよね。私を心配してくれたの?」
「当たり前だろ。友達を心配しない友達、なんてあってたまるか」
「ふふふ♪」
当たり障りのない会話。いつもの彼女なら、もっとツッコんでいたのに、と、余計な事を考えつつも、「今から、ちょっと来れる?」と聞いた。
「今から?」「そう、ちょっと、屋上に。」
少し考えて、彼女は弁当をしまって、「うん、いいよ」と言った。
――そよ風が吹いて、彼女の長い髪を揺らした。それは、ごくごく自然の流れに乗って、俺の肩にも届く。
「あの・・」「・・・・・」何をしようと思ったんだろう。何を言おうと思ったんだろう。屋上に来て、二人で並んで座って、無言で、空を見上げて。
「あの・・・川関君・・」か細い声が、甘くささやかな誘惑の様に、耳に届く。
普段の彼女からは、こんな声も、こんな言葉も、こんな姿も、見えない。
そう、普段の彼女からは・・・―――「江藤さんっ」
「え?」
わからない。彼女がわからない。此処にいるのは正真正銘、江藤舞。
だけど、反論してもいい。ここにいるのは俺の知ってる江藤舞じゃない。
俺の知ってる彼女は、こんな弱々しそうな人じゃなくて、
ロングヘアーの癖に痛んでるところなんて殆んど無くて、いたずら好きで、
いつも明るくて「川関君!」ってそれはもう、大切な誰かを呼ぶみたいに愛しそうに呼んで――――――
「川関君・・・痛いよ」
気がつくと、彼女の手をおもいっきり握り締めてしまっていた。
「あ、ごめんっ」
慌てて手を解放する。「ねぇ・・川関君、私の話、聞いてくれる?」
突然、話を持ちかけられた。聞かない理由はない。「・・・いいけど」
「よかった、。」
ほっと、それなりにある胸を撫で下ろして、彼女はぽつぽつと語り始めた。
「私・・どうしてかな。お母さんやお父さん、クラスのみんなのこと、先生とか、みんな覚えてるのに・・・あなたのことだけ・・思い出せないの。何で・・・」
その言葉を聞いて、俺が少しほっとした、彼女は自分が「記憶喪失」だという自覚があったから。多分、保健室の先生に言われたんだろうけど。
「あのね・・・川関君・・・みないで」
いきなりの言葉に、驚いて彼女の方を見てしまった―――号泣。
泣いていた。
「ど、どうしたっ・・・・俺、何か悪いことでも―――」
と、言うか、俺、何も喋ってない。
「ちっ・・違うの・・・私ね・・・おかしいの・・・川関君を見てると・・・ううん、考えるだけでも・・・もの凄く・・・苦しいの。
それから、何故か心が温かくなって、一緒にいたいな、って思うの。
―――そういう風に感じたのは、川関君だけみたい、って思ったら、
違ったの。隣のクラスの、人。眼鏡をかけてる人なの。その人を見ていても、同じ気持ちになるの・・・苦しい。でもね、
その人の時は、川関君よりも、もっともっと苦しくて、私はこの人の為に何か出来なかったことがあるんじゃないかって、」
「言うな、もう―――」
持ってたジュースのペットボトルでそのお喋りな口を塞いでやる。
「む゛ーっ!む゛ーっ!」
両手で左肩をぽかぽかと叩かれまくられて、そういえば江藤はこんな風に怒ってる姿も可愛いかったな、等と思った。
「江藤は・・・その人が、気になる?」興味があるわけじゃなかったけど、聞いてしまった。
彼女は涙目のままちょっと考えこんで、「別に」と答えた。
「だけどね、あの人・・・ね。私と同じ感じがするような気がした。」「そっか。・・気のせいだよ。きっと」
そう言ってあげないと、気がすまなかった。
だって多分、彼女の言う『あの人』は、俺の友人だから。
―――まだ、数十分しか、経ってない。なのに、
「なぁ江藤」「なぁに?」・・・すっかり、普通だった。記憶以外は。
「俺さ、お前と、約束してたんだ」「約束・・・?」
「でも今江藤がそんな状態だから、約束が果たせないんだ」言うなり、彼女の表情が曇る。
「ごめんね・・・・本当に、思い出せなくて、ごめんね・・・!」
また彼女を泣かせてしまうと思った、思わず自分が「ごめん」と言ってしまっていた。
「早く思い出してくれ、なんて急がせる様な事言って、すまん・・・!」
言った直後に、そう言ったことを後悔することになった。
「早く、思い出すから・・・!だから、約束して!私が記憶、取り戻したら、真っ先に、私との約束、守って!」
「―――は?」
そうだ、江藤舞は良い友人であると同時に、こんな変な事も言う奴だった、と、意識の遠くで思った。