階段から落ちた私が目を覚ましたとき、頭の中で何か、誰かの名前が回っていた。大好きな人の名前。
回って、回って、消えかけたとき、その人は私の目の前に現れた。だけどその瞬間、私はその人を忘れてしまっていた。
Angel whisper(後)
その日のうちに、私は、私の一番の友人だったという人と言葉を交わした。
だけど不思議なことに、その人の言葉は一つ一つが、まるで何処かに刺さるように、だけど確実に、
私の心にちくちくと刺さっていった。
まるで、目を覚まして、と私に呼びかけているように。なんでそんな事言うの。私は、起きているよ。
―――だけど、このちくちく刺さるモノは懐かしい気がしていた。あったかくて、そして切ない。
「江藤さん、仕事ー」
クラスの人のことはわかるから、よかった。だけど、川関君と、あの人のことがわからない。
川関君は、「記憶を取り戻したら、彼のことも思い出すんだから、今は無理にその人を思い出さなくてもいい」って言うけど、
気になってしまう。
記憶がないからこそ、今なら許されてしまうだろう事を、やってしまおうか、と・・・―――。
あの人は、榊原武士君というらしい。川関君が教えてくれた。名前がわからないと不便だろ、と。
なんで不便なのかな・・私がやろうとしてることわかっちゃうのかな・・―――
───そんな事を思いながら、私は、下駄箱で、自分の場所ではなくその人のところを探していた。
―――急に、背後から声が沸いた。
「―――何、してるの」
「だれっ・・」
振り向くと、そこには、川関君がいた。
帰りらしく、左肩にはバックとかの荷物が携えていて。私の挙動不審な行動が目に止まったらしい。
急に、怒った様な顔つきになると、近づいてきて、「何やってるんだよっ!」と、言い放った。
「別に・・・何もやってな」
「じゃぁ・・なんでここにいるの?そこは、榊原のクラスの下駄箱だろ?江藤さん・・何をしようとしてたかは知らないけど・・・何もしないほうがいいよ。」
最後のほうは、諭すように、とてもやさしく聞こえていた。
「うん・・・」その一言で、不思議と、今までの気力が失せてしまっていた。
(何故だろう・・・彼の言葉は・・・声は・・・私をとても安心させる・・。)
それはまるで、誰にでも優しい天使のように、まるで、私がこのまま甘えてしまってもいいような、そんな、安心してしまえる・・・―――
「ほら、バック、とってくれば」「・・え?」
ぼう、っとしていたらしい。声をかけられてもすぐに何を言われたのかわからなかった。
「バックとってきなよ。途中まで、一緒に帰ろう。なんか、危なっかしい。」「うん・・・わかった」
ぱたぱたと階段を上って教室へ戻る。途中、先生に、廊下を走るなと怒られたような気もするけれど、気に留めない。
教室に戻ってバックの持ち手を掴むと、すぐさま、また走り出した。
川関君が待っていると思うと、何だかどきどきして、踊りだしてしまいたい気分だったから。
が、教室を飛び出した途端、
『ドンッ!!』
誰かに思い切りぶつかってしまった。そのはずみで、コンタクトがとれた。
ぶつかった相手が誰であったかわからなかったせいか、反射的に叫んでしまっていた。
「待って、動かないで!コンタクトが飛んじゃったの!」
逃げるように去ろうとしていた、相手の動きがひた、と止まった。
「お願い・・・・、一緒にコンタクト探して・・・」
誰かと正面衝突したくらいでふっとんでしまうようなつけ方をした自分も馬鹿だけど、それ以上に、
ここでコンタクトをなくしてしまうのはもっとたちが悪い。
「・・・わかった」
そう一言だけ告げられると、私もコンタクト探しに応じた。
思うように見えないせいで、途中、相手の体にまたぶつかってしまったり、手に触ってしまったりと、色々あって、探すこと、数十分。
「・・・見えない」
見つからない。
見えない。
それ以前に光が捉えられない。このままでは、実質的に私はだめで、相手の人に探させているようなものではないか。
「あ・・・あの」
「―――何」
「わ、私、コンタクトがないと、本当に何もわからないんです・・・ごめんなさい・・探しても探しても・・
・・コンタクトの輪郭も見えないんです・・ごめんなさい、ごめんなさ」
「うるさいよ」
相手の冷たい声に、思わずビクッと体を震わせた。怒らせてしまったのかもしれない。
だけど、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「・・―――俺に関する記憶が、ないんだって?」
その言葉で、我に返ると同時に、この相手が誰なのかもわかった。
「さ―――かきばら、君?」
「・・・本当に忘れたのか」
記憶から紡ぎ出す様な言い方をすると、彼は、きっと無表情――だけど、動作はコンタクトを探す仕草で、
ため息をつくと、その辺をまたもぞもぞと手探りして、「見つけたよ」と一言言って、手を伸ばした。
ありがとう、と言う前に彼の姿は視界から消え去ろうとしていた。
何で、と思ったけど身体が走り出していた。案の定、すぐに追いついて。
両手を軽く振り回しながら、「―――ありがとう、くらい言わせてよっ!」と叫ぶと
「別にいい」
あっさり返された。何故かその言葉―――彼の言う言葉は、違う意味で心に突き刺さった。
(なんでこんなに苦しいの。何故彼の言葉はこんなに重いの。
どうして、こんなにちくちくと痛むの―――)
そんな私の思いを、まるで見透かしたかのように、急に彼は振り向き、一度私を見て。
「今の舞さんは・・・俺の知らない舞さんだから。君は傷つく必要はないから。」
―――彼なりの気の使い方だということを理解したのは数十秒後だった。
それから、コンタクトをつけて、バックを手に取り、川関君のもとに戻って。
すっかり時間がかかってしまっていた。「・・・遅い」
戻るなり、おでこにデコピンをされて、思わずきゃいきゃい喚きまくる。
「・・・榊原にぶつかったって?」「うん・・って何で知って・・?」
「さっき、帰って行ったから」「あ、そっかぁ。」
意味のない、日常的な会話を交わしながら、帰路に着く。
だけど、何故か意識のそこから、沸々と湧き上がる感情がある。
(一緒にいたい・・・?)
それは、先ほど屋上で時間を共にしたときも、感じていた感情。
(なんで・・・私は・・・?)
「それで、今日の授業のことは、―――」
「私、川関君になんて言ってた」
意識しなくともその呟きは大きく発せられてしまってた。その言葉の、自分が願った意味に、自分でも驚いて。同時に彼は、ちょっと怖い顔をした。
そして「知りたい?」と一言、(私は聞くつもりで言ったわけではないが)聞き返された。途端に、どうしようもない程の焦燥感にかられて―――
「いっ、いいっ!別にいいっ!」そう答えると、私は走り出した。
「ちょっ・・!? 待てってば!」
思い出しそうなのに、思い出せない、焦燥感に駆られた―――もやもやと、形にならない感情が。溢れ出した何かが、涙になっていた。
わたしは、泣きながら走ってしまっていた。
「――――――。」
何か大切なことを忘れてしまっているのに、思い出せなくて、ぼろぼろ涙が零れているのはわかってた。ただ、それを約束だといったのは、
「約束―――」
自分で言ったことのはずなのに、脳裏に自分の笑顔がちらついた。
「約束―――・・」
「江藤っ、前!危ないって―――!」
がつんっ。
私は、電信柱に激突してしまっていた。急速に意識が遠のいて―――。
幾分経ったんだろうか。
目が覚めたとき、少なくとも目の前は明るくなかった。
頭が割れるように痛くて、目の前がすこしちかちかしていて、誰かが居て。
「だ・・・れ」
「大丈夫か・・・?」
川関君と、その他、人通りがそこそこある通りだからおそらく野次馬だろう、数人が覗き込んでいて、私は慌てて身を起こした。
「心配かけて・・すみませんでした」
深々と礼をして、その後は川関君の手を引っ張り、その場から立ち去ることにした。
* * *
* *
いくらか歩いて。ふいに視界がぶれた、瞬間、何も無い所ですっころげてしまう。大丈夫?、と言わんばかりに彼の手が伸びてきて、助け起こしてもらう―――
―――そのまま抱きついた。
「え」と硬直した彼を目の前にして、私は一言、こう告げました。
「恥ずかしながら・・・さっきの電信柱激突で・・・記憶、戻りました・・」
言い終わらないうちに、「このぉ〜」といういたずらっぽい声。そして頭にぐりぐりと拳が当てられて、思わず「痛い痛い痛い〜!」と口走っていた。
「なんだよそれ・・・まるでマンガみたいじゃん・・・か」
川関君はひとしきり私をいじり倒した後、へなへなと頭を抱えて座り込んだ。
「でも、案外、マンガみたいな展開を期待してたのは私だったのかもしれない、ね」「え?」
彼に聴かれない様、そっと呟くと。
「ねっ、約束は?」
「―――あぁ」ため息をついてから。
瞬間、視界から姿が消えて、次の瞬間、私は―――彼の腕に持ち上げられていた、
「わっ・・・えっ、えええええっ!?嘘ぉ!?」
驚くなと言われたら、そんなの無茶に決まってるけど。
「このまま走るぞぉっ!」そう言うなり、本当に走り出した。
「えっ、嘘っ、わ、きゃぁ〜」
「好きだーっ!」「は、恥ずかしいよ・・・わ。」
ほんのささいな約束ほど、嬉しい、そんなひと時は、
誰かの囁きのようにこそばゆく、そして甘い恋を、私たちに約束してくれた様です―――。